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北へ(思い出の北海道) [旅]

「北へ」と云っても北朝鮮ではありません。3年ぶりの北海道山行です。

北海道と云えば私にとってはとても忘れることのできない思い出深い所です。

昭和35年高校3年生の時に、オホーツク海が見たくて旅したのが最初でした。そして社会人3年目、昭和39年には会社勤めに嫌気がさして、北洋漁業の漁師になろうと思い函館に行きましたが、友人に諭されて断念しました。それ以来北海道に行くことはありませんでした。

会社勤務も窓際族になってから登山を始め、日本百名山巡りを始めました。
2000年の夏にはムスコを連れて女満別空港に飛んで羅臼岳・斜里岳・トムラウシ山などに登りました。そして翌年は羊蹄山・幌尻岳・大雪山に登って最後は利尻山で日本百名山を完登しました。それ以来2019年まで15回の北海道遠征山行を楽しんでいます。

今回がラストの北海道山行になるかもしれないので、私にとっての北海道を回顧してみたいと思います。
私にとって北海道は高校生の頃「森と湖のまつり」という映画を見て憧れの地になったものです。ストーリーや内容は忘れましたが、高倉健・香川京子主演の映画でした。

「オホーツク海を見たい」という希望もあって、高校3年生になった時に北海道旅行を計画しました。貧農の小倅ですから親がそんな金を出してくれるはずが有りません。春休みから休日には建設現場でアルバイトしながら、夏までには1万円くらい貯めました。そして夏休みには学割の北海道周遊券を買って北海道旅行を決行しました。

当時まだカニ族が出没する前で、進駐軍の払い下げのリュックに寝袋・飯盒・ガソリン式ストーブにお米などを入れての旅行です。

上野駅から常磐線周りの「急行岩手」に乗って青森まで、青函連絡船に乗って函館に入り、始めて北海道の地を踏みました。当時あったと思う函館から稚内行きの列車に乗り、乗客席の下に新聞紙を敷いて寝て名寄まで行きました。名寄線に乗ってオホーツク海岸の興部に出て、念願のオホーツク海を見ることが出来ました。その晩は興浜線(コーヒンセン)の沙留と云う海水浴場の海の家に泊まりました。海の家で自炊しました。結局自炊したのはこれが最初で最後でした。海の家で寝袋にくるまって一晩過ごしました。


北海道2日目は興浜線~勇網線(ユーモウセン)に乗って、車窓にサロマ湖や能取湖を観ながら網走に向かいました。能取湖と云う駅で降りて網走迄歩こうと思ったのですがとても歩いて行ける距離でなく、ヒッチハイクで何とか網走駅に着き、原生花園などに廻った後、網走湖畔の呼人小学校に宿泊依頼しました。呼人小学校の用務員さんが渋い顔しながらも教室の一角に案内してくれました。自炊の支度をしていると「ここは寒いから俺の所に来な」と自分の家族の住む部屋に案内してくれました。そして家族と一緒に食事も頂き、別の部屋で泊めてくれました。用務員さんは「芳賀睦男」さんと云う方で、今も名前は覚えています。翌朝挨拶して呼人を出ました。


北海道3日目は呼人から北見相生までの相生線に乗って北見相生に行き、バスに乗って釧北峠から阿寒湖畔に出ました。阿寒湖畔のコタンの土産屋を覗いて木彫りの熊を彫るアイヌ人に「写真を撮っても良いですか」と聞くと、長いあご髭を生やしたアイヌ人の主人は快諾し、「どこから来た?今日は何処に泊まるのか?」と聞いてきます。事情を話し「泊る所はまだ決めていない」と話すと、「そうかそれなら俺の家に泊まって行け」と嬉しい申し出です。案内された家は土産物の木彫りの作業小屋で、小屋には早稲田大学生の二宮さんと高木さんの2名がアルバイトで熊を彫っていました。アイヌの主人は「弟子豊治」さんと云う方で、娘さんのピリカが小屋の手伝いをしていました。木彫り作業を終えて当時あった「さっぽろジャイアンツ」というビールの大びんを買ってきて飲み会が始まりました。私にも「飲め飲め」勧めてくれました。高校生ながら家ではオヤジの酒を盗み酒していたので、私もたらふく頂いたものです。その夜は作業小屋でゆっくりと休むことが出来ました。


北海道4日目、阿寒湖畔のコタンの土産物店に寄ってお礼をすると。「今日は何処へ行く」と聞くので「屈斜路湖に行く」と答えると、「屈斜路湖畔の和琴半島に知り合いの酋長がいるから訪ねて見なさい」と自分の名刺に「長野からの高校生よろしく頼む」と云う紹介状を書いてくれました。

バスで双岳台・双湖第そして摩周湖・硫黄山と回って川湯温泉から屈斜路湖の和琴半島に着きました。和琴半島の土産物店に寄って山中酋長に会いました。山中酋長、素っ気ない態度です。弟子豊治さんからの紹介状を見ても返事がないので挨拶だけしてその場を離れました。「今日の宿はどうしたものか」と思案しながら弟子屈町方面の道路を歩きました。付近の農家に声かけようかと思いながら夕暮れの道路をとぼとぼと歩いていると、後ろから馬車が来ました。馬車の古老が「こんな時間になんでこんなところを歩いているのか」と私を馬車に乗せてくれました。そして「クマに食われるど、俺はいつも鉄砲持っているのだ」と鉄砲を見せてくれました。事情を知って「俺の内に泊まれ」と云ってくれました。屈斜路湖畔の古老の家に着くと米ををもっていることを話すと1升ほどの米を泊賃代わりに差し出すと、おばあちゃんがすぐに炊いてくれました。「内地のコメは旨いな」と喜んでくれました。一晩お世話になって翌朝、古老に誘われて家の前の屈斜路湖畔に湧き出る温泉に案内してくれました。「俺が作った温泉だみどり湯と名付けた」と云う温泉で、屈斜路湖の水がちょうどよい湯加減になるように石積みしてある湯でした。「藤田松四郎」さんと云う古老で、会津から移住した方でした。

その後40数年後にその地を訪ねると藤田さんの家は無くなり、日帰り入浴施設に変わっていました。そしてそれから10年後に再び訪ねてみると、温泉施設そのものがなくなっていました。


北海道5日目は藤田さん宅から川湯温泉駅に出て釧網線に乗り、標茶駅から中標津へ、中標津からは厚床に出て、根室に向かいました。納沙布岬に行きたかったのですが、移動手段がなく根室の街を徘徊した後、お寺さんに泊めてもらうことにしました。市内中心部にあるお寺で、寺の名前は忘れましたが、学生帽を被った私を見てすぐに引き入れてくれました。小部屋に通されて食事も出していただき嬉しい一晩でした。


北海道6日目は根室のお寺を出る時「札幌に向かい帰郷する」と話すと「札幌の新善光寺に泊まりなさい」とこれまたうれしいお勧めで、紹介状を書いてくれました。根室本線に乗って釧路を過ぎると初老の夫婦が同席になりました。毛ガニを出して食べ始め、私にも勧めてくれました。長野の山奥育ちでカニの食べ方など知る由もありません。カニの爪で実を取り出して食べ方を教えてもらったのも思い出に残っています。狩勝峠で車窓からの眺めをカメラに収めながら札幌に着きました。新善光寺に向かうと根室のお寺から電話でも入っていたのか、迎えてくれて本堂のど真ん中に布団を敷いてくれました。ここも食事付きの一晩を過ごさせていただきました。


北海道7日目の最終日です。札幌の時計台などを観て、登別温泉のクマ牧場に寄りました。日帰り入浴施設でひと風呂浴びた後、登別温泉からは函館に向かいました。そして、青函連絡船に乗って沢山の人の情けと触れ合った北海道を後にしました。まさに人情ふれあいの無銭旅行でした。

以上が私の北海道初旅の記録です。

次は北海道山行から帰宅後に山行の記録を書こうと思っています。


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JO

先日はお会いできて感激でした!

永井少年の北海道旅行記、楽しく拝見しました。
永井さんの人情ふれあいの旅はこの頃には始まっていたのですね。

学生時代、遠軽~網走まで徒歩合宿したことを思い出しました。
勇網線の廃線跡にできたサイクリングロードを通って能取湖畔を歩きました。
その在りし日の勇網線に乗ったことがあるとは羨ましい気がします。

北海道の山の記録も楽しみにしています(*^-^*)
by JO (2022-07-21 10:30) 

カモシカ永井

>JOさん
コメントありがとうございます。この話は私の自慢話の一つです。話せば2時間くらいかかり、聞いた人から驚かれることが多いですね。やはり私は人懐っこい所が人の情けを受けることが多いのかなと思っています。この歳になってもキャラクターは変わりがないのだなとも思います。こんな話をしながらまたいつか山の上でJOさんとの時間を楽しめたらよいなと思います。北海道山行記もお楽しみください。
by カモシカ永井 (2022-07-22 13:24) 

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